伊藤 芳明(いとう よしあき、1933年12月30日 - )は、静岡県浜名郡北浜村貴布祢(現:浜松市浜名区)出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)・コーチ。
経歴
中学時代に野球を始めるが、肩が強く左投げだったため投手となる。興誠商業高校では2年生からエースとなり、3年次の1951年の夏の甲子園の静岡県予選の前には新聞に「ダークホース」と書かれたが、1回戦で静岡市立高校に0-1で敗れた。
1952年に中央大学へ進学すると、1年の春季から東都大学リーグで登板。2年次の1953年春季のリーグでは5勝を挙げて中央大学の全勝優勝に貢献する。同年の大学選手権でも勝ち上がるが、決勝で立大に敗れ準優勝となった。しかし、同年の夏場に背中の筋肉を痛める。秋季リーグには投げられるまで回復するが、以降は投球時に肘が下がりそれまで得意としていた縦のカーブが横に曲がるようになって、制球力に課題を抱えることになったという。1954年秋季リーグの対東農大戦でリーグ史上4人目のノーヒットノーランを記録するも、11四球を与えピンチの連続の中での達成であった。リーグ通算57試合登板、21勝13敗。大学同期に鈴木隆、穴吹義雄がいる。
卒業後は日本生命に入社する。1年目の1956年の都市対抗では予選で敗退。もとより練習好きであったが、この敗戦以降、徹底的に練習に取り組むようになったという。1957年の都市対抗に出場。倉敷レイヨンとの2回戦(初戦)で先発するが、麻生実男の2点本塁打で逆転を許し、チームは延長10回の末に敗退した。1958年も都市対抗に出場。1回戦で、後にプロで同僚となる日本通運の堀本律雄と投げ合うが惜敗した。2年連続で都市対抗に出場したことから注目を集め、在阪のNPB球団を中心に争奪戦となる。一旦、伊藤は広島カープと入団合意するが、広島のスカウトが契約書を広島に取りに戻っている間に、読売ジャイアンツの球団代表・宇野庄治の訪問を受けて熱心に勧誘され、翻意して巨人へ入団した。
1959年に巨人へ入団すると、同じ新人の王貞治と同部屋であった。オープン戦から好調で、前年度29勝を挙げて最優秀選手となった藤田元司を差し置いて、新人ながら開幕投手を務める。金田正一と投げ合って、勝ち負けは付かなかったが6回を1失点に抑え、以降先発ローテーションに加わった。シーズンでは、36試合に投げ7勝9敗防御率2.98を記録する。
1960年初めての二桁となる10勝(9敗)で堀本律雄(29勝)に次ぎ、1961年は13勝(6敗)で中村稔(17勝)に次ぐチーム2位の勝ち星を挙げた。特に、1961年は勝率.684で最高勝率のタイトルを獲得するとともに、防御率2.11もリーグ3位の好成績で、川上哲治監督の初優勝に貢献している。1962年は城之内邦雄の入団や藤田元司の復調もあって、伊藤は救援投手へ転向させられ、開幕から勝ち星を挙げられない状態が続く。この状況の中で、伊藤は投手コーチの別所毅彦に対して、救援はやりたくないと不満を述べるが、首脳陣への反抗とみなされ、即座に伊藤は二軍に落とされた。しかし、同年8月に別所が中村稔に対する鉄拳制裁事件を起こして退団。これと前後して伊藤は一軍に戻されて先発ローテションへ復帰し、閉幕までに4勝を挙げた。同年オフに永子夫人と結婚している。
1963年には再び先発投手に復帰して10完封を含む19勝8敗防御率1.90(リーグ2位)とチームの勝ち頭となり、2年ぶりのリーグ優勝に貢献、沢村賞のタイトルにも輝いた。1964年は春季キャンプでの左足の肉離れから投球フォームを崩して、11勝と勝ち星を減らす。1965年は肩の故障に加え、同じ先発左腕の金田正一の加入により出番が減少し、わずか2勝に終わると、同年オフに池沢義行・久保田治・島田雄二との1対3のトレードで東映フライヤーズへ移籍した。
東映ではたびたび先発投手も務めたほか、ワンポイントや敗戦処理など何でもこなした。巨人時代なら爆発していたかもしれないが、この時は達観していたというか淡々とやっていて、それがよかったんじゃないか、と伊藤自身が回想している。結局、4シーズンでわずか5勝と不本意な成績に終わり、未勝利となった1969年限りで引退した。新人の年を含め開幕投手を3回、オールスターゲームにも3度出場している。
1970年から巨人に戻ってスカウトになり1979年まで務めた。1980年のみ二軍投手コーチを挟んで、1981年から2000年まで再びスカウト。
選手としての特徴
威力のある重い球質の速球とドロップを得意とした。ピッチングは力強かったが、投球フォームはコックンコックンしてリズム感に乏しかったという。
人物
巨人に入団した当初から新人離れした風貌で、おっちゃんのニックネームで呼ばれた。他人の悪口を決して言わず、誰からも好かれる誠実な人柄であった。
詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- 最高勝率:1回 (1961年)
表彰
- 沢村栄治賞:1回 (1963年)
記録
- オールスターゲーム出場:3回 (1961年、1963年、1964年)
背番号
- 21 (1959年 - 1965年)
- 12 (1966年 - 1969年)
- 73 (1980年)
脚注
参考文献
- 「懐かしのプレーヤーを訪ねて 想い出球人 第92回 伊藤芳明」『週刊ベースボール』2003年1月27日号、ベースボールマガジン社、2003年
- 『ジャイアンツ栄光の70年』ベースボールマガジン社、2004年
- 千葉茂『巨人軍の男たち』東京スポーツ新聞社、1984年
- 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』恒文社、1976年
- 森岡浩 編著『プロ野球人名事典 2003』日外アソシエーツ、2003年
関連項目
- 静岡県出身の人物一覧
- 中央大学の人物一覧
- 読売ジャイアンツの選手一覧
- 北海道日本ハムファイターズの選手一覧
外部リンク
- 個人年度別成績 伊藤芳明 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
- 浜松学院野球部後援会




